ディスカッションをいちいち「勝ち負け」と見る人はめんどくさい
ディスカッションをいちいち「勝ち負け」と見る人はうざい、面倒くさいと思います。
性格的なこともあるでしょうが、親の価値観が強く影響しているように思います。
「何でも親のせいにするな」と言われそうですが、親以外への接触が少ない子どもへの影響は否定しづらいです。
どういう価値観をすり込まれるとそうなるのか
「何ごとも戦いだ。絶対に負けるな」と常に言われ続ける。
「人に意見を聞いたら負けだ。自分の主張を通せ」と常に言われ続ける。
いちいち「勝ち負け」と見る人がどうしてうざいのか
- まともな議論ができないから。議論が深まらないから
- 本当はどうあるべきかではなく、自分の勝ち負けしか考えないから
- 発言内容のよしあしではなく、個人の勝ち負けになりがちだから
どうしたら、「勝ち負けへのこだわり」を大きく減らすことができるか
- 「勝ち負けへのこだわり」は、ディスカッションの邪魔になると理解する
- 「勝ち負けへのこだわり」ではなく、何が問題か、ベストか、どうすべきかなどを考えるほうがはるかに建設的だと理解する
- 「勝ち負けへのこだわり」より大切なことがあると理解する
- 「勝ち負けへのこだわり」が強すぎる自分は、親の刷り込みの結果かもしれないと考えてみる
「勝ち負けへのこだわり」は、ディスカッションの邪魔になると理解する
「勝ち負けへのこだわり」をすると、真のディスカッションができません。
「勝ち負けへのこだわり」が、人の目を曇らせてしまいます。
2. 「勝ち負けへのこだわり」ではなく、何が問題か、ベストか、どうすべきかなどを考えるほうがはるかに建設的だと理解する
「勝ち負けへのこだわり」ではなく、何が問題か、ベストか、どうすべきかなどを考えるほうがはるかに建設的で意味があります。
何が建設的なのかわからなくなったら、ともかく「勝ち負けへのこだわり」を捨ててみてください
3. 「勝ち負けへのこだわり」より大切なことがあると理解する
「勝ち負けへのこだわり」があると、何が大切かを判断できなくなってしまいます。
「勝ち負けへのこだわり」が思考を停止させてしまうともいえます。
4.「勝ち負けへのこだわり」が強すぎる自分は、親の刷り込みの結果かもしれないと考えてみる。
「勝ち負けへのこだわり」は親の刷り込みの結果かもしれないと、百歩譲って考えてみてください。
「勝ち負けへのこだわり」は誰でも少しは持っていますが、ディスカッションや人とのやりとりをいちいち「勝ち負け」とみるのは普通ではありませんし、建設的でもありません。親の影響を疑う必要があると思います。
まとめ
いかがでしょうか。ディスカッションをいちいち「勝ち負け」と見るとうざい、面倒くさい、という点はご理解いただけたでしょうか。
そういう傾向があるかもしれないと思う方は少し考えてみていただけるといいかもしれません。